2011-11-14

4.「寄宿舎」から「吉田寮」へ

寮運動の盛り上がり

 1959年大学は「寄宿舎規程」を制定し、その中で初めて「京都大学学生寄宿舎吉田寮」という名称を付与した。1962年には寮生側からこの規程の改正運動が開始され、主に自治会による入退寮権保持が要求される。また工学部拡大に伴う学生数の急激な増加を受けて、増寮運動が展開された。この結果得られたのが現在の熊野寮であり、吉田寮からの引っ越し者を中心に自治会が形成された。


 ALT-HIDELBERG (1963年)


文部省の学寮運営方針変更

 文部省は1962年に二・一八通達を提出し、寮における水光熱費の個人負担の徹底を求めた。同年8月には「○○大学学生管理運営規則」(の部分には各大学名が入る。略して管規と呼ばれる)を作成、寮の管理運営の徹底と標準化を目指した。

「水光熱費などの受益者負担が徹底されることになれば、低所得者が大学に通うことが難しくなってしまう。また、大学側が寮を標準化された規則によって管理することになれば、現在自治会が目指しているような、寮に住んでいる者の意見を十分に反映した柔軟な運営が難しくなる可能性がある。寮を多くの人にとってよりよいものにすることを第一に考えれば、文部省の方針は適切でないと思われる」。このような問題意識のもと、全国の学寮などでこれらの方針に反対する学生運動が発生した。
 京大では、当局が文部省方針と異なる自主路線を歩むという選択をしたが、当時の吉田寮自治会は政府の文教政策そのものに寮問題の根本があるとして、運動を展開していった。

 1965年には寄宿料の3倍値上げ反対をきっかけに、吉田寮と熊野寮が「寄宿寮不払い闘争」を宣言した。実際の不払いは熊野寮のみで、吉田寮はそれに連帯するかたちである。最終的に不払い闘争は実を結ばなかったが、この動きが1969年以降の運動につながっていった。


団交確約集

団交確約集

寄宿寮について記された個所 (1965年)

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