2011-11-14

1.吉田寮ってどんなところ?

 


 吉田寮は自治寮です。寮の運営を自分たちの手で行っています。また吉田寮は、京都大学の福利厚生施設です。経済的に困窮している学生でも学問ができることを保証するための場所といえます。両者は不可分な関係にあるといえるでしょう。もし寮費や、寮の規則などを誰かから一方的に決められてしまったら、それは寮で生活している人、あるいは今後寮に関わるであろう人たちの状況にそぐわない、理不尽なものになってしまうかもしれません。そうではなく、寮に関わる当事者どうしで話し合いをすることで、寮をよりよくしていこう、そしてそれを必要に応じて大学などに主張していこう、ということが、吉田寮では考えられています。

2.吉田寮がたどってきた経緯

 
  吉田寮には1980年代に廃寮化されそうになった経緯があります。当時の大学は、吉田寮が自主的に運営を行っていることを不正常だとみなして、廃寮にしようとしました。当時の寮生たちはこれに抗議しました。そして自治会として、吉田寮に関わりたいと思う人を広く受け入れて、寮を残すことを一緒に主張していったのです。例えば、大学側に先駆けて入寮枠の拡大が行われたのもこのときです。また給食機能を停止された吉田寮食堂は、多目的空間として開放され、芝居やライブの開催を通じて様々な人が関わることのできるような場となりました。

その結果、それまで男子学部生しか入寮することのなかった吉田寮に、より様々な立場の人が関わるようになったのです。異なった立場の人どうしが同じ場を共有するにあたって、誰かが立場の違いによって不利益をおしつけられることがないよう、考える必要が出てきました。そういったなかで「何か問題が起こった際には、話し合いなど当事者間の合意によってそれを解決する」という考え方が共有されるようになったのです。

「安易に一方的な決定を受け入れてしまうのではなく、納得がいくまで当事者間で話し合い、そのうえで結論を出すことを大切にする。そうすることで吉田寮を、立場の弱い人でも意見が言いやすいような場所にしていく。様々な人の意見を取り入れることによって吉田寮をよりよい場所にしていく」これは当時から今に至るまで、吉田寮に受け継がれている考え方といえるでしょう。





3.吉田寮の現在

 
  吉田寮は今年(2011年)で築98年を迎えます。吉田寮の建物は老朽化が進んでいて、これについては1960年代ごろから指摘がされているのですが、大学側のサボタージュにより抜本的な対策がなされてきませんでした。

 現在大学側は老朽化対策として、まずは吉田寮の隣に新棟を建てることを提案しています。これに関しては、大学側と自治会とで話し合いが持たれています。大学側は新棟を建設するにあたっては、現在の吉田寮の状況をそのまま導入するのではなく、新たな条件を課したいということを提示しています(例:寮費の値上げなど)。自治会は、もし新棟建設というかたちで老朽化対策の解決を行うときには、それが自治寮として、あるいは福利厚生施設としての現在の機能を損なうことになるのを避けるべきであると考えています。

 また現寮の老朽化対策については、今後、新棟とは別個に話し合っていくということで大学側と合意していて、まだ何も決定していない状況と言えます。しかし大学側は、自治会に無断で、新棟建設と現寮建替えをひとつの計画とした予算を申請しており、交渉のなかでも現棟の建替えを行いたいということを強く示してきています。自治会内では、大学側が(新棟のように何らかの条件を付けたかたちでの)現寮の建替えを、なし崩し的に行おうとしているのではないかといった懸念も持たれています。

4.補修に向けた動き

こうした状況のなか、私たち補修特別委員会は、今ある吉田寮の建物を補修して残していきたいと考えています。吉田寮を補修することで、現在の吉田寮の、自治寮そして福利厚生施設としての機能を保ち、また現自治会の活動の「歴史」をとどめる建物としての吉田寮を、残して後に伝えていきたいと考えているのです。

具体的な活動としては、木造建築の専門家の意見を参考に、寮の補修活動の展開に向けた準備が行われています。専門家によれば、吉田寮に関しては、現在の建物を補修して今後も使用していくことが現実的で、そのためには自分たちの手で日常的なメンテナンスを行っていくことが重要だということが言われています。

私たち補修特別委員会はこのようにして、寮を補修する活動を進めていきたいと考えています。今後も吉田寮とともに、補修特別委員会の動きにご注目よろしくお願いします!


0.今昔吉田寮展

吉田寮は今年で築98年を迎えます。吉田寮は誕生してから約100年間、大学そして学生の歴史の舞台であり続けてきました。このページではそのような吉田寮の歴史を「今昔吉田寮展」として紹介したいと思います。

 吉田寮自治会が今のようなかたちで活動するようになるまでの経緯を、ぜひ知って頂きたいと思い、このような展示を企画しました。吉田寮は今この瞬間にも「歴史」を紡ぎ続けている場所です。この展示を見てくださった方が、今の吉田寮の姿を実際に見に来てくださると嬉しいです。

*この展示は、本年9月に開催された「やったね! 吉田寮ほぼ100周年祭」の一企画である同名の展示をベースとし、吉田寮の歴史的資料の写真などを公開しているものです。
 資料については、京大文書館から提供を受けたものを使用しています。吉田寮関連の資料は全て一般に公開されていて、誰でも閲覧できるようになっています。この展示を見て興味を持たれた方、もっと資料を見たいと思われた方は、ぜひ京大大学文書館まで足をお運びください。資料は京大大学文書館HPからも閲覧することができます。

「京都大学大学文書館」 http://kua1.archives.kyoto-u.ac.jp/ja/

 また資料の解説については、1999~2003年にかけて京都大学新聞に掲載された「吉田寮物語」を参考にしています。記事の画像をブログ上にアップしていますので、そちらもご覧ください。

1.創設から一時閉舎まで

 寄宿舎の開設とその経緯

 京都帝国大学寄宿舎が開設したのは1897年9月11日(大学の開設とほぼ同時期)である。大学は初め第三高等学校の建物の一部を間借りしており、寄宿舎はさらにその事務室の一角を代用していた。第三高等学校が二本松地区に移転したことにより、現在の本部構内の校舎などを京大が譲り受け、寄宿舎も瀟洒な三階建ての建物となった(この時点では、現在の附属図書館の北東に位置していた)。


 寄宿舎を開設した木下総長は、当初学生を「大人君子」として扱い放任主義を貫いた。後に風紀の乱れが問題となると、学生側などから自治組織が立ち上がり、一定の規律を設けて寄宿舎運営を行うこととなった。実質的な自主入寮銓衡が始まったのも当時である。また寄宿舎では高校との交流が行われたり、講演会などの催しものが開かれた。



綱領、入会規則、会員名簿


「吉田之秋」(1906年)
 
評論や創作、挿絵など舎生の作品が収められた冊子。
                               

「吉田之秋」(1906年)





「歳暮之巻」(1906年)

 


京都帝国大学寄宿舎誌 (1912年)

本部構内に建つ寄宿舎を背にして、当時の舎生が写っている。

 

 ところが1911年、当時の菊池総長は、寄宿舎を閉鎖して新寮を建てることを決定。新しい寄宿舎では従来の一室四人制を廃止して個室制にするとともに、大学当局*¹が入寮選考を行い学業優秀なものを優先的に入舎させるという。当時の舎生は新寄宿舎を「『高等下宿屋価値』だけで何ら精神的価値を見いだせない」と評した。また当局の決定が自分らに何らの相談もなく行われたことに憤慨し、抗議の意味を込めて自らの手で寄宿舎の解散式を行った。                            
  
*¹大学当局……大学当該部局の略称。「大学」と一言でいっても学生や職員など様々な立場の人を含むことから、区別をつけるためにこのような名称が用いられている。


「舎生総会記録」

 寄宿舎解散が可決されたことが書かれている。
 


2.近衛寮再開から終戦まで

「東には三十六峰、北には比叡愛宕の両峰。東雲が薄らぐ朝と、夕日に映える夕暮れの景色は、得もいわれないほどの美しさだ」

 1913年吉田近衛町に二階建ての寄宿舎が復活した(この建物が現在の吉田寮である)。復活の感動を舎生が冒頭のセリフに表した。

寄宿舎自治再編の動き

 旧寄宿舎の経験者が入舎したこともあり、新しい寄宿舎でも再び自治が形成されていった。 
 同年には大学で澤柳事件*¹が起こり、それに続いて総長を学内選挙で選ぶことが実現された。こういった大学自治の確立と拡大は寄宿舎の自治運営にも好影響をもたらし、入舎銓衡への舎生の参加なども再び認められた。

*¹澤柳事件……就任したての澤柳総長が、7人の教授を学問的そして人格的に不適当として辞職勧告をしたところ教授会が反発したもの。教授の任免は総長と教授会の合意が必要であると文部省が公式に認め、澤柳は退任。教授会自治が確立した画期的な出来事であった。



第二回各寮総務委員 (1915年)


 しかし1925年には京都学連事件*²が起こり、大学自治と学問の自由の蹂躙として大きな反発を呼ぶ。警察が大学当局に無断で寄宿舎の家宅捜索を行ったことなどが問題となり、大学内では学生大会が開かれ抗議の声が上がったが、内務省はこの件に関し「治安維持法」を適応、反対の声は封じられた。澤柳事件から始まった学内自治拡大の揺り戻しともいえる。

*²京都学連事件……学生の研究団体である社会科学研究会と、それが加入する京都大学学生連合に対する思想弾圧。1925年同志社大学構内に軍事教練反対のビラを貼ったことを理由に、社会科学研究会の中心メンバーが逮捕された。舎生の熊谷孝雄もそこに含まれていた。


「南寮第廿号室誌」(1918~1942年)
 
在室の記念として寮生が各自記入した。



「南寮乙第廿号室誌」

瀧川事件に関する文章が書かれている。


 1930年には食堂の業者委託を廃止して、寄宿舎で炊事人を雇う「自炊制度」が開始。毎年十二月には「自炊制度記念祭」が食堂で開催されるようになった。このころから寄宿舎の生活が旧制高校風を帯び、ストームを起こす者などが表れた。
 次第に寄宿舎の生活にも戦争の影響が色濃くなる。1945年には敗戦を迎えた。


寄宿舎火災状況報告 (1941年)

中寮が火事で焼失した際の報告。
出火の原因はヒーターであるとのこと。

寄宿舎火災被害状況写真等 (1941年)

  

寄宿舎勤労動員名簿(1942年)

寄宿舎勤労動員名簿 (1942年)



「中寮日誌」(1942~1943年)


「中寮日誌」(1942~1943年)

戦時中の食糧難などについて書かれている。


                      
絵葉書

絵葉書

絵葉書




3.戦後の混乱

戦後の寄宿舎の変化
 
 1945年に敗戦を迎え、寮自治の目的は「規律あり制裁ある一の切磋団体を組織する」から「責任ある生活を営み、舎生相互の人格向上を図ること」に改められた。また寄宿舎は、復員学生の問題に直面した。生活難など厳しい環境の中で良好な生活環境を維持するための努力が当時の舎生に必要とされた。

 1950年には初めて新制の学生が入舎し、寮に大きな影響を与えた。この時の寮の変化が、たびたび繰り返された「切磋琢磨の自治」と「自由な住みかとしての寮」の振り子において、決して前者へと戻ることのないターニングポイントになったのである。
 

北寮日誌「心琴」(1945年)

北寮日誌「心琴」(1945年)




ララ救援物資受払簿 (1949年)

ララ救援物資受払簿 (1949年)



学園復興会議、そして京大当局との衝突

 学生の自治活動が活発になるとともに、大学当局との衝突も起こるようになった。
 1953年11月8日、全国からの自治会代表者が京都に集まり全日本学園復興会議が開催されるが、京大当局は学外者を含む集会は認められないとして会場使用を不許可とする。さらに11日の「わだつみ像記念集会」においては、集会に合流するため京大を出発した同学会(全学自治会)のデモ隊が警官隊により厳しく規制された(荒神橋事件)。これに対する抗議集会が19日に時計台前で開かれ、3500人もの参加者があった。しかし当局は会場の無断使用を理由に同学会の執行部を処分、舎生であった松浦玲さんには退学処分が下された。舎生大会では松浦さんの退学処分反対と生活支援を決議、全学学生大会でも処分反対の決議が挙げられ、反対運動が展開された。


学園復興会議 寮問題分科会議議事録 (1953年)





学園復興会議 寮問題分科会議議事録 (1953年)

 
自治憲章生まれる

 松浦さんに関する一連の出来事は、入退舎権の重要性と舎生規約の必要性を当時の舎生に強く認識させた。これを受けて1955年には寮自治の運営実態を「自治憲章」が採択される。当局から後に示された「寄宿舎規程案」とは相反するものであったが、しばらくはこれらによる二重規定状態が続いた。

4.「寄宿舎」から「吉田寮」へ

寮運動の盛り上がり

 1959年大学は「寄宿舎規程」を制定し、その中で初めて「京都大学学生寄宿舎吉田寮」という名称を付与した。1962年には寮生側からこの規程の改正運動が開始され、主に自治会による入退寮権保持が要求される。また工学部拡大に伴う学生数の急激な増加を受けて、増寮運動が展開された。この結果得られたのが現在の熊野寮であり、吉田寮からの引っ越し者を中心に自治会が形成された。


 ALT-HIDELBERG (1963年)


文部省の学寮運営方針変更

 文部省は1962年に二・一八通達を提出し、寮における水光熱費の個人負担の徹底を求めた。同年8月には「○○大学学生管理運営規則」(の部分には各大学名が入る。略して管規と呼ばれる)を作成、寮の管理運営の徹底と標準化を目指した。

「水光熱費などの受益者負担が徹底されることになれば、低所得者が大学に通うことが難しくなってしまう。また、大学側が寮を標準化された規則によって管理することになれば、現在自治会が目指しているような、寮に住んでいる者の意見を十分に反映した柔軟な運営が難しくなる可能性がある。寮を多くの人にとってよりよいものにすることを第一に考えれば、文部省の方針は適切でないと思われる」。このような問題意識のもと、全国の学寮などでこれらの方針に反対する学生運動が発生した。
 京大では、当局が文部省方針と異なる自主路線を歩むという選択をしたが、当時の吉田寮自治会は政府の文教政策そのものに寮問題の根本があるとして、運動を展開していった。

 1965年には寄宿料の3倍値上げ反対をきっかけに、吉田寮と熊野寮が「寄宿寮不払い闘争」を宣言した。実際の不払いは熊野寮のみで、吉田寮はそれに連帯するかたちである。最終的に不払い闘争は実を結ばなかったが、この動きが1969年以降の運動につながっていった。


団交確約集

団交確約集

寄宿寮について記された個所 (1965年)

6.廃寮の危機を乗り越えて

学寮不要の文部省方針

 1971年の中央教育審議会答申で、文部省は学寮を「紛争の根源地」と断定、その教育的意義を否定した。これに基づいて多くの学寮で、水光熱費の徴収や入退寮権を大学当局が把握していった。大阪大学、岡山大学などでは、大学当局が反対する寮生を機動隊の力を借りて抑圧し、自治寮の廃寮化を進めていった。
 
京大内での学生運動の動き

 1972年に、同学会(全学自治会)が反民青系となる。これに伴い同学会は、世界革命を目指す観念的な学生運動ではなく、教育学園の課題と、地域の反公害や反差別の課題、底辺労働者の課題などを実践的に結び付けた運動を志向するようになった。
 同学会の最大の闘争課題は1972年から継続された経済学部の竹本助手の処分粉砕闘争であった。しかし1977年には大学評議会でこの処分が承認され、1969年から9年間続いた「京大の紛争状態」が終結する。
 これを機に大学当局は、寮の「正常化」に着手し始めた。

寮の「正常化」に向けた着手、そして在寮期限設定へ
 1978年沢田学部長は、1950年代から行われてきた確約団交体制を否定、さらに寮内の職員(炊フおよび守衛、事務員、掃除人)の今後の補充を行わないこととした。また1980年に翠川学生部長は、寮生が当局に対し個別に入寮届を提出することを強要、提出しない寮生を「不正規寮生」と規定した。

  1982年大学評議会は「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31日とする」という廃寮決定を行った。大学当局は、寮自治会と話し合いを続けることによる「正常化」をあきらめ、現自治会と縁を切って「正常化」する方針に転換したのである。すなわち「廃寮化=建て替え」である。

「在寮期限」に対する闘争

 しかしこの吉田寮の「在寮期限」は学内のコンセンサスが不十分なまま強引に決定されたものであったため、学生自治会などの猛烈な反対運動を呼び起こした。文学部、教養部、農学部、理学部で学部長団交が行われ、それぞれの学部長は学生部の独走に非難の意志を示した。

 学部長団交と並行して、1983年には5年ぶりに学生部長団交が実現した。しかし神野学生部長は強硬路線をとり、話し合いを一方的に打ち切って、水光熱費の要求書を京大の4つの寮に送付した。また1983年の会計検査院の来寮阻止行動に関して寮生8名が逮捕され、5名が起訴された。時計台と学生部棟への抗議行動が、建造物侵入に当たるというのが理由であった。寮自治会はこれらの対応に追われ、「在寮期限」撤回運動に十分に取り組めないまま膠着状態に陥った。

 こうしたなかでさらに寮運動の分化が起こってきた。熊野寮は開寮以来、吉田寮と共同歩調をとっていたが、二寮間に齟齬が生まれてきたのだ。しかし「在寮期限」到来を目前にした「寮生追い出し」という事態に、対立はありながらも多くの学生団体が廃寮反対の声を上げ、そのことが大きな力となった。

 1986年3月31日、吉田寮は「在寮期限」を迎えた。しかし大学当局は上記の学内状況を鑑みて、吉田寮を「在寮期限執行中」という扱いとし、140名の在寮生が継続して居住することを認めた。そのうえで食堂の廃止、入寮募集の停止などを行った。しかし吉田寮は自主入寮募集を続け、その後も百数十名の寮生数を維持した。

 1988年大学当局は一方的に吉田寮の西寮4棟(現在の薬学部構内に建っていたもの)を解体・撤去した。これをきっかけに学生部と吉田寮の話し合いが再開、河合学生部長は吉田寮西寮全体の撤去をもって「在寮期限の執行を終了すること」を提案した。吉田寮自治会は問題の長期化が新寮予算や現寮補修予算の障害になっていることを重視して、提案を受け入れた。こうして1989年に「在寮期限闘争」は終結したのである。

寮生枠の自主的な拡大

 「在寮期限」が設定されて以降、吉田寮は寮に関わる潜在的な当事者をより広く受け入れていくため、入寮対象者の枠を自主的に拡大していった。1985年に女性の学部生、1991年に院生・聴講生・医療短期大学部生、そして1994年には「京都大学学生との同居の切実な必要性が認められるもの」が対象になり、家族や介護者の入寮が可能になった。



`83年度入寮案内


 


`83年度入寮案内
`83年度入寮案内

89年に撤去された吉田寮西寮の写真。





 I will  ’85新入寮生歓迎パンフレット(1985年)






 I will  ’85新入寮生歓迎パンフレット(1985年)






吉田寮入寮パンフレット(1992年)



留学生用 吉田寮入寮案内(1993年)

                                                (おわり)

参考文献:京都大学新聞 「吉田寮物語」 
第2238号(1999年4月1日)、第2244号(1999年7月1日)、第2248号(1999年9月1日)                                第2256号(2000年1月16日)、第2244号(2000年7月1日)、第2313号(2003年2月16日)

5.京大闘争

闘争の背景とその経緯

 1968年、全国の大学で学園闘争が多発した。学費値上げや学生会館の管理運営権の問題などをきっかけに、教育環境の是正を求める「学園問題」と、ベトナム反戦・70年安保の「政治問題」を連結させた運動が展開されたのである。
 京大では、当時の奥田総長が学生に対し話し合い路線をとっていたものの、当局側が寄宿寮不払いや増寮要求を頑なに拒んだため、両者の対立が深まっていった。

 また学生運動の系統の分裂も加速していった。戦後の学生運動は専ら日本共産党の影響の下で進んできたが、60年安保の少し前から、共産党の青年組織である「民青系」と、それとは路線を異にする「反民青系」に分かれるようになっていたのである。
 京大における同学会(全学自治会)、寮闘争委員などは「反民青系」に属し、京大内でもこれら両者の対立は深まっていった。

 こういった状況を背景として、寮生による対学生部闘争が開始される。当時の寮生は「無条件増寮、20年長期計画白紙撤回(吉田東寮廃寮を含むもの)、経理全面公開」を掲げた。1969年3日間にわたる団交が決裂すると、寮闘委は学生部建物を占拠。話し合いを続けても何ら問題が解決されないことに対し怒りを表明した。
 闘争にかかわった学生の意識は多様であった。党派に属する学生は、固有の革命理論に基づく政治運動の拠点づくりを目指したが、大多数の学生は、管理社会を問題視して自らの立場から運動を展開し、新たな活力を求めようとした。こういったひとつの理論に収斂されない多様性が、京大闘争を深くそして長く継続させたといえるだろう。

2011-11-09

吉田寮図面大公開!

吉田寮に関しては、寮の建設当初の図面が今でも保存されています。これは築98年を迎える木造建築にとっては、非常に貴重なことです。ここではその図面全29枚を一挙に公開しています。